社会の仕組みは人間の体と同じように「病む」のが普通です。病状の悪化を防ぎ少しでも健康体に戻すこと。これがわたくしの考える憲法学の役割です。個々人が自らの切なる願も社会の仕組みに浸透しうるということに気づけば病の進行を食い止めることができます。それを可能にするのが「習律」という受け皿です。また、現実の世界に住まう個々人が自己に向き合う環境を与えられるならば病の進行を防ぐことができます。それを支えるのが「信教の自由」です。
個々人の願は些末なものとして顧みられないのが通常であり、いわゆる憲法もそれを全て受け止めることができるわけではありません。しかしそれが切なるものであればあるほど、人々を根底から突き動かすものとなるでしょう。習律はそうした切なる願の受け皿となりえます。また、宗教は個々人を自己に向き合わせるものである一方、一般社会と摩擦を生じる一面をもつため、信教の自由がどのような場合に尊重されるかを考究することには大きな意義がります。
教育においては、個々人が社会の仕組みの病の当事者であり、その病を発見し治療しうる可能性をもつということを伝え続けます。そのためには何よりもまず、「くにのかたち」は他人から与えられるのではなく共に見出し作るものであるということを自覚してもらう必要があります。また研究においては、習律の定義と信教の自由の限界をより掘り下げて考究していきます。いずれも即効的なものではありませんが、漢方薬のような効き目を果たすものと思います。
三重県情報公開・個人情報保護審査会の委員を数年間務めている。